お知らせ4
お知らせテキスト
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不平ぶつぶつ、それで幸せになれますか?
あなたは不平屋さんですか? もしそうなら、あなたのつぶやきが、自分や周りの人たちの祝福になったことがありますか? つぶやいて人に元気を与えたことがありましたか? 不平をつぶやくとはどんなことか、本当の意味をご存知ですか?
いくつか例をあげてみましょう:参った、もう起きる時間だよ! あの車、前に割り込んだな! うちの上司は不公平な人だ! ひどい天気だぜ! どうせ働くだけの人生さ!
思わず不平不満を言いたくなるような例なら、誰でもいくつでも挙げることができます。アダムとエバも、神さまが彼らに隠し事をしているに違いないと思う誘惑に勝てませんでした。その結果がどうなったかは、皆さまはよくご存知です。
ブツブツ不平を呟いても、それが罪だと思う人はまずいません。不平を言えば、まずかったかなとは思うでしょう。でも、それはそれだけのことですー特に、誰にも聞かれない環境でつぶやいた時はそうです。でも、聖書、例えば、コリント人への手紙第一 10章10節などを読めば、待てよと考え直すことになります。
“また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。” コリント人への手紙 第一 10章10節
なんと、これは警告ではありませんか!。特に、”つぶやいてはいけません。”と言う御言葉に注目してください。注目すべき御言葉はもうひとつあります。
“兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。” ヤコブの手紙 5章9節
ここでは、さらに強い言葉が使われていました。
不平をつぶやくとは、人が困難な環境におかれた時に行う、ごく自然な反応にすぎないと思われがちです。だから、至る所でつぶやく声を聞くことができます。しかし、父なる神は、私たちが、”いつでも、すべてのことについて、私たちの主、イエス・キリストの名によって父なる神に感謝”(エペソ人への手紙 5:20 )しなさいと言っておられます。だが、人には、他に従いたくないないと言う、生まれながら持っている性質がありました。
神さまは、人のつぶやきや不平不満について、人とは違う視点でみていることが多いのです。丁度、親たちが子供たちの間違いを、彼らとは違う角度から見ているのと同じことです。
でも、ここに良き知らせがありました。人が生まれながらにして持っている、従いたくないと言うこの性質を克服する方法があると言うのです! それなら、その方法をしっかり学ぶべきでしょう。
人は、”感謝すること”を訓練できると言うのです! 不平を呟きたくなると言う人の堕落した本質を克服する手段として、神さまはこの方法を備えてくださっていたのです。もし私たちが、すべてのことに感謝することを実行できるなら、神さまが、すべての問題を益として下さることが期待できるのです(ローマ人への手紙 8:28 参照)。
結構すぎて信じられない話だ、と思いますか? かって私も全く同じように思っていました。しかし、神さまは、少しづつ時間をかけて、御言葉が真実であることを私に確信させてくださったのです。かって私は、まさに不平の専門家で、そうすることにまったく罪の意識を持っていませんでした。しかし、聖霊さまが教えてくださいました。そうすることが、自分自身だけでなく周りの人たち、いや、神さまさえ、どれほど不幸にしているかと言うことをです。
神さまが人を創造されたとき、不平を呟きたいと言うガスを抜く弁を、人の体に設置されませんでした。人が不平をつぶやくなどと言うことは、ご計画のうちになかったからです。しかし、人がご自分が希望される歩みをしなかったので、神さまは驚くほど愛に満ちた対処法を考案されました。人が不平を呟きたくなりそうな事すべてを取り上げて、それらを祝福のために用いて行こうと言われるのですーもし、神さまはそうしてくださると人が信じるなら。
思い出してください。イエスさまは、人がイエスさまを信じたとき、その人たちを癒されたのではなかったですか? だから、もし人が神さまに何かして欲しいと望むなら、すでにしてくださっていることへ感謝することを学ぶべきでしょう。私たちの信仰をたてあげる助けになる事なら、なんでも大きなプラスになる事です。だから、信仰を向上させるためなら、なんでも喜んでするべきです。
神さまは、かってこの世で起こったすべての事柄を手にしておられ、それらを、この困難な世にあって私たちを助けるごための計画に用いようとされています。さらに神さまは、私たちが神さまを信じ、すべてをお委ねすることを求めていらっしゃいます。人がそれを実行するとき、神さまは、すべてを御手の内で支配され、すべてのことが最善となるようにされるのです。
そう、神さまは、私たちが不満をつぶやいた時でさえ、愛していてくださいました。さらに、神さまの御力が、私たちのうちで、また、私たちを通して働く方法も与えていてくださいました。ここで、もうひとつ、御言葉を見てみましょう。
“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。”
ピリピ人への手紙 4章4節
いつも感謝さえしていれば、望むものはなんでも与えられると言ったように聞こえたでしょうか? もしそう聞こえたなら、お許しください。申し上げたことの真意は、”神さまの目から見て、最善の物が与えられる。”ということです。
2020年9月分 (2008年2月に書かれたもの)
翻訳 奥脇省三
イエスさまの答えは完璧!
あそこに就職するにはどうすれば良いのでしょう?
良き夫や妻、親であるためになすべきこととは?
祈りが聞かれるためには、一体、何をすれば良いのでしょうか?
人生の大事すべてについて、私たちは何をしたらよいのかという答えにせまられています! しかし、イエスさまは、どうしたら祈りが答えられるかについては、完璧な答えを用意してくださっていました。こうおっしゃっています。
“心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。” マルコの福音書 12章30節
私たちが最も必要とするのは、結局、神さまを愛することにつきる、と言うのです。なぜなら、”愛は決して絶えることがない”(1コリント人の手紙 13:8) からです。神さまへの愛が成長すれば、そのことが、祈りへの答えを得るための道となります! 神さまを愛することによって、多くの祝福を受ける道が私たちに開かれます。例えば、病を得る、悲劇が起きるなどは、決して良いこととは言えません。しかし、そんなことなども、この御言葉の前には膝をかがめざるを得ないのです。
“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
ローマ人への手紙 8章28節
私たちにもできる良い行いはたくさんあります。しかし、神さまへの愛が成長しない限り、霊的なパワーに欠けていると言わざるを得ません。”神は愛” ですから、神さまへの愛を学ぶことは、私たちを神さまにより近いものとするのです。イエスさまの神さまに対する愛と服従は完璧なものでした。だから、イエスさまは、神さまの力の全てを用いることがお出来になりました。私たちを励ますために、さらに、こうおっしゃっていました。
“わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。”
マタイの福音書 11章29節
あなたがたくさんの悩みを抱えている人だったら、まず神さまをもっと愛することから始めなさいと、私は強くお勧めします。
神さまをもっと愛することを学ぶ。どうしたら、そんなことができるようになるでしょう? その答えもまた、御言葉の中にありました。
“私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”
ヨハネの手紙 第一 4章19節
今までに神さまがしてくださったことを知れば知るほど、私たちの神さまへの愛は深くなります。
“このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。”
ヨハネの手紙 第一 4章17節
神さまにして頂きたい様々なこと。私たちはこのことだけに心を集めていることがあります。それが普通のことかも知れません。しかし、自分の欲望ばかりに心を集中すると、イエスさまが、私たちに知って欲しいと思っておられることに心がいかなくなります。
あるとき、10名のらい病患者がイエスさまのところにやってきましたが、イエスさまは全員を癒されました。だが、
“そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。”
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」”
ルカの福音書 17章15、19節
この一人の男が戻ってきて、自分が癒されたことを神さまに感謝し、称えたとき、彼はイエスさまへの愛も表していたと、私は思っています。
頭を悩ます問題を抱えていたら、神さまが過去にしてくださった素晴らしいことの数々に、もっと注意を向けてみてはいかがですか? あなたがキリストの義を持つことができる方法を、神さまは、無償の贈り物として備えて下さっていました。
“キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。”
ピリピ人への手紙 3章9節
不平不満を言う代わりに、神さまに思いを馳せる。このことが、すべてのことに対してごく普通の反応となるまで繰り返すことを学びとることができます。それが学べれば、聖霊さまと私たちを結ぶチャンネルができ、この困難な世にあって、どうしたら勝利の人生を生きることができるかを聖霊さまが教えてくださいます。
神さまがして下さった素晴らしいことの数々に感謝する時を、I日のうちに何回も持ちましょう。そうすれば、あなたの中で、神さまへの愛が成長し始めます。こんな聖句を繰り返すのも良いでしょう:
“いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。”
エペソ人への手紙 5章20節
この御言葉が、気が付かないうちにあなたの一部となった時、神さまに対するあなたの愛は、かつてないほど強いものとなっているでしょう。
(2008年3月のメッセージ)
翻訳 奥脇省三
大切なレッスン
会堂司のヤイルスは、自分の娘が今死んだとの知らせを受け取りました。だが、イエスさまは彼におっしゃいました。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」” マルコの福音書 5章36節
この言葉を聞いて、ただイエスさまを信じると言うことは、死んだ娘の両親にはかなり難しいことだったでしょう!
どの人も、書き出せば何ページにもなるほどの困難、問題を抱えているものです。そんな困難に出会うと、人は誰か助けてくれる人を求めます。人はその人を励まし慰めてくれるかも知れません。だが、多くの場合、人はそれ以上の何かを求めているのです。人からの助けに抵抗を感じることもあります。それは、自分の受けている困難がどれほど大きいかを理解していないと思うからです。また、私たちは、なぜ誰も助けの手を述べてくれないのかと思ったりするかも知れません! でも、もし私たちが、自分の問題ばかりに集中しているなら、そこから一歩も前に進むことはありません。
神さまが望んでおられるのは、本当に必要なのは、神さまだけにお出来になる助けであることを私たちが理解することなのです。
イエスさまは、まさにこの私たちが必要としている助けを与えるためにこの世においでになりました。それは、私たちの心を変えることでした!
”私はあなた方の内に住まう。” とイエスさまはおっしゃっています。私たちの存在の中心、心そのものを変えようとされているのです。その変化は、私たちが、”生まれ変わった” 時から始まります。それだけでなく、イエスさまは、私たちを変え続けて行こうとされるのです。
鏡を見れば、そこに自分が写っています。しかし、神さまは、私たちの中に、ご自分の御子を見ようとされているのです! 神さまは、私たちの中に、人が目指すべき目標の人、御子を見ようとしておられ、私たちが成長し、その人のようになるための機会を色々と与え続けられます。だが、私たちは、自分の身に起こること見て、これが神さまがなさろうとしていることだと言うことを理解することはなかなか出来ません。
人はまるで子供のようですー子供は、なぜ毎日学校へ行かなければならないかが分かっていません。子供たちは、毎年毎年、厳しいレッスンを受け、先生たちはいつも、本当に分かっているかどうかをテストします。神さまもまた、私たちにレッスンを与え、人をテストし続けられます、こんな困難に出会う理由がないと人が思う困難をお与えになることを通して。
でも、神さまにはそうする理由がありました。人が御子に似たものとなっていくように望まれ、その助けをなさっているのです。イエスさまはこの世に来て、暮されました。だからそのことがお分かりになるのです。サタンが私たちが失敗させようとしているのを、イエスさまはご存知です。しかし、イエスさまが目指しておられるのは、人が神さまの意図した通りのものになっていくことでした。確かに、これは厳しいことです。でも、イエスさまがともにいて助けてくださるのです。こうおっしゃっています:
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」”
マタイの福音書 28章20節
神さまは、すべてのことを益に変えてくださることを学ばなければなりません(ローマ人への手紙 8:28)。この真理を知ることが、この厳しい世を生き抜き、永遠の命に備えるためのよき助けとなるでしょう。イエスさまはご自分が学ばれたことを私たちに教え、こうおっしゃっていました。”何事にも心を悩ましてはなりません。心配してはなりません。思い煩ってはなりません。”
こんなご命令に従うのは、決して生やさしいことではないと、人生経験の長いあなたは知っているかも知れませんね。それでも、人生で最も厳しい状況でイエスさまが私たちにくださる言葉は:「恐れないで、ただ信じていなさい。」でした。
イエスさまは、この世において苦しみを受けました。しかし、よみがえられたのです! だから、私たちもまた、よみがえるのです!
(2008年11月のメッセージ)
翻訳:奥脇省三
クリスマスの贈り物
今年1年の間に、私たちが配っている ”プレイズ・ニュース” が送り返されてきたというケースが数多くありましたー”受取人死去”の印が押されて。つまり、プレイズ・ニュースのクリスマス版を毎年読んで下さっていた友人たちの中には、今年のクリスマスにはもうこの世にいない人たちが沢山いたのです。今、来年もクリスマスをともに祝えると自信満々の人たちがいますが、死亡通知をもらった人たちの中にも、昨年、同じように自信満々だった人たちを、私は沢山知っています。この人たちはもう、この世でクリスマスを祝うことはありません。この事を思う時、私はこんな祈りを導かれます。
”主よ、あなたの誕生日を祝わせてください。あなたが私に求める事を行い、あなたが望まれる人生を生きることによって。御霊が、私のなすことすべてを導いてくださいますように。”
”人に与えることは、クリスチャンとしての信仰の重要な部分です。”
しかし、この与えるという行為にも堕落があります。私たちは、クリスマス・プレゼントと言う義務を果たすため、必死になってデパートを走り回ったりします。クリスマス当日までに疲れ果て、それが終わると、やれやれと喜んだりするのです。義理で行うプレゼントは、与える喜びを人から完全にに奪ってしまいますーでも、本当は、そんなことがあってはならないのですがね。
今年のクリスマスでは、私たちのショッピングの中にも、イエスさまの御霊が存分に働かれるものとしなければなりません。与える喜びが、この世的な霊によって奪い去られることがあってはならないからです。どんなプレゼントでも良いのです。与えるすべての友人や親戚の人たちのために、喜びを持って主に感謝しましょう。来年の今頃、その人たちはこの世を去っていて、与える喜びをもう二度と得られないかも知れないからです。
プレゼントを買うお金があれば、お金を持っていることを喜びましょう。買うお金がなければ、持っていないことを喜びましょう。お金がないことを嫌悪すれば、そのために不幸になるかも知れません。でも、自分の人生も、所有するすべてのものも、すべて神の御手の中にあることを信じるなら、心が解放され、どんな人生を送っていても、それをエンジョイできるのです。
与えることは、それが良きものであるように努めなければなりません。例えば、お気に入りだからと言って、一人の子供に沢山のプレゼントを買い与え、他の子達にはほんの少しとか、全くあげないなどと言うことをすれば、大きな不親切と言う罪を犯したことになります。借金があるのに豪華なプレゼントをすれば、支払い不能となるでしょう。結果として、人に迷惑をかけることになります。与えることには、バランスが必要なのです。
さて、あなたの今年のクリスマス・プレゼント、どんなバランスが用いられるでしょう? 忘れてはなりません。これは、キリストの誕生日なのです。クリスマスのプレゼントのうち、何%が主に捧げられるものとなるでしょう? 正しいバランスが取られるような判断をお勧めします。主が望んでおられるものを捧げるのです。
私について言えば、主がプレゼントとして望んでおられるのは、私たちが主の愛を牢獄にいる人たちと分かち合うことだ、と確信させられていました。私たちが、誰か牢獄にいる人を助けるなら、それは主を助けたことになると語られたのです! 囚人の中には、恐ろしい犯罪を犯した人がいるのを、主はご存知です。しかし、そんな人たちも、時には霊的な助けが必要なのです。そんな人たちを、牢から出してあげなさいなどと、主はおっしゃいませんでした。”訪問しなさい。”と言われたのです。今年のクリスマスに、私たちの団体、”賛美の財団” からのプレゼントを携えて囚人たちを訪問してください。そうすれば、キリストの愛を分かち合うことができます。他の誰に送るより多くのプレゼントをキリストに捧げることができるように祈りましょう。この祈りがあれば、クリスマスのショッピングすべてにおいて、本当のクリスマスの心を実現できます。なすことすべてにおいて、キリストがその中心におられるようにして、今年のクリスマスを、今まででもっとも楽しいクリスマスとしましょう。(1995年12月に書かれたメッセージです)
翻訳:奥脇省三
”獄中からの賛美”を記念して
最近、ザンビアのチルバ大統領のインタビュウを見る機会がありました。大統領はその中で、彼がイエス・キリストを救い主として受け入れたのは、彼が政治犯として牢獄にいた時、この本、”獄中からの賛美”を読んだからだったと言っていました。この事を知って、私は神さまがなさったこの奇跡に、改めて大きな喜びを覚えたのでした。偉い人も下層の民も、金持も貧乏人も、あらゆる階層の数多くの人たちが、この小冊子、”獄中からの賛美”を読んで主に導かれたのです。
25年前に”獄中からの賛美”が出版された時、神さまがなさろうとしておられたご計画について、私はまったく理解できていなかったようです。私が望んでいたのは、ただ、クリスチャンが不平不満を言う代わりに、神さまを賛美するようになってほしい、そのために、この本が用いられますようにと言うだけのことでした。”獄中からの賛美”が、人の魂を獲得することができる本だとは、私にはとても思えなかったのです。
しかし、神さまのご計画は、もっと遠大なものでした。確かに、クリスチャンは、この本を読んで主を賛美するインスピレーションを得ました。だが、最大の結果は、この本によってキリストを主として受け入れた人の驚くべき人数なのです! これこそが最大の成果でした。
”獄中からの賛美”を読んだ時、深い悔い改めの心に圧倒され、思わずひざまづいてしまったと言う経験を世界中の多くの人たちが証ししています。泣かずにこの本の一語一語を読むことができなかったと言う人たちも沢山おりました。これはすべて、聖霊さまの働きによってなされた反応でした。だからこそ、過去25年において、この本はいくつもの海をこえ、多くの国を通って、地の果てまで伝えられて行ったのです。現在でもなを、毎日のように、生まれ変わってキリストにある素晴らしい人生に入ることができたと言う新しい知らせが来続けています。
毎年のように、前の年を上回る結果を見続けているのです! そして今や、映画”獄中からの賛美”が出現したことによって、さらに多くの人たちが、主イエス・キリストに導かれることを信じています。この本が、さらに多くの言葉に翻訳されることを期待しています。神さまの目的を達成するためになす私たちのさまざまな努力が、神さまによって祝福されるのを見るとき、私たちの心は喜び踊るのです。
長年にわたって私たちを助けてくださった人達に特別の感謝を捧げます。神さまがご自分の栄光のために用いて下さったと知った時の喜びを、あなた方が経験されるよう、心からお祈りします。
翻訳ー奥脇省三
挫けてはなりません
ご自分の処刑が目前に迫った時、イエスさまはこんな祈りもできたはずです。
”父よ、もしわたしがこんな死に方をしたなら、弟子たちは、恐怖のあまり、あなたの御言葉を全世界に伝えることなど出来なくなってしまうでしょう。わたしの教えを信じた者たちも、あれは偽教師だったに違いないと思うかも知れません。わたしを守ってくださるなら話は別ですが。”
十字架の上の死は、この世の抱える問題を解決するために神さまが取られた手段ではあり得ない、なぜならーーと言う理屈を、イエスさまは嫌と言うほど聞かされたはずです。
しかし、イエスさまの心は揺らぐことはありませんでした。イエスさまは神さまを信じ、喜んですべてを委ねておいででした、こんな祈りをされるほどに:
”わたしの願いではなく、御心の通りにしてください。” ルカの福音書 22章42節
私もあなた方も、さまざまな問題を抱える中で、こんな思いを持つかも知れません:
この環境は、神さまが間違いなく変えて下さるに相違ない。私をこんな状態にしておかれるはずはない。このままでは、私の人生は失敗だ。でも、神さまは決してそれを望んでおられないはずだ。
しかし、神さまはイエスさまの、環境ではなく、信仰に応えておられたのでした。それ故、イエスさまの弟子たちは、全世界に福音を伝えるという神さまのご計画を実行する人たちのリーダーになったのです。信じる者たちの数は急速に増え続け、たちまちのうちに大群衆になっていきました。神の御子、イエスへの信仰を捨てる代わりに、自らの命を捧げたクリスチャンも沢山出てきました。周りからなんと思われようと、何をされようと、彼らはいつも喜んでいて、キリストにある勝利を歌っていました。
そう、一見、イエスさまは敗北したように見えます。しかし、イエスさまは、神さまに忠実であり続け、神さまもまた、イエスさまに忠実でした。弟子たちもまた、鞭打たれ、石打ちの刑を課され、投獄されて、一見、敗北したように見えます。神さまも、あるときは、すぐに、彼らを牢獄から助け出されましたが、あるときは、そこに長く留め置かれたりしています。しかし、その場所で彼らは、2000年もの間、人々の心を変え続けるという偉業を成し遂げたのです。
”私の願いではなく、御心の通りにしてください。” この言葉を言う時は、必ず私たちにきます。その時私たちもまた、疑い、恐れる理由を沢山思いつくでしょう。しかし、私たちはその時、神さまに仕える人生を選択するべきなのです。私たちは、一人の人に証しすることもできますが、10人いや100人にも証しできるでしょう。すると、彼らがまたそれぞれ、10人、100人の人々に御言葉を伝えて行くことになります。
神さまは、私たちが蒔く種を何倍にもすると約束されました。そして、この種を蒔く方法は沢山あります。例えば、妻のメアリーは、電話に出る時、”Jesus loves you !,
イエスさまは愛してくださいます。”と言い、私は、Praise the Lord, 主を賛美します。”と言うのです。これは、本当に小さな種かも知れません。しかし、”もし人が、自分に出来ることをするなら、神さまはそれを何倍にもして下さる”のです。
もし私たちが、聖書やトラクト、本などを人に配れば、イエスさまが弟子たちに命じられた使命と同じ使命の一部を果たしていることになります。神さまは、私たちのすることを何倍にもしてくださいます。
あなた方が今日下す決断が、明日の可能性を育てることを忘れないでください。
翻訳:奥脇省三
これも神さまのご計画
自分は、御国の建設のための働きを十分に行っていないのではないかとの思いが時々来るようになりました。若い頃でしたら、私はアメリカ中、いや、外国にまで旅行して、人々に福音を伝えることができたのです。しかし、今の私にできることと言えば、神さまが私に語って下さっていると信じていることについて書くことぐらいです。
しかし、自分が役立たずだと思いたくなった時、必ず神さまが介入してくださいました。神の子となった誰か一人を用いて、私が奮い立つようなメッセージを送って下さったのです。救い主としてのイエスさまを知るのに、私が書いた本がどれほど役立ったかを話して下さった人もいました。私の本によって新しい喜びを得たという人もいました。あの本は、人をイエスさまに導くのに役立ったと言って下さった人もいました。
そう、これこそが、神の子たちがお互いに助け合う方法なのです。神さまは、ご自分の目的を達成するために、数多くの奉仕者をお持ちなのです。私たち一人一人が、神さまのご計画の中で、自分の役割を持っているのです。
“奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。”
コリント人への手紙 第一 12章5節
私たちは皆、神さまのご計画の一部を担うことが出来ます。そして、時がくれば、主は私たち全てを集め、永遠のすみかへ導いて下さいます。その時が来るまで、私たちには、一人一人に与えられた主のご計画を実行する機会が与えられているのです。
イエスさまの弟子たちは、牢獄に何年も閉じ込められて社会から遠ざけられ、出来ることと言えばものを書くだけと言うことを経験しました。そんな時、彼らはこう思いたくなったかも知れません。
”なんでこんなところに押し込められなければならないんだ? これでは、イエスさまがなさった素晴らしいことの数々や、教えて下さったことを人々に語り伝える任務などとても果たせないではないか!”
その通りです。でも、その代わり、彼らはイエスさまの教えを書き綴るのにその時間を使うことが出来たのです。
神さまは彼らを用いて、ご自身のメッセージを書籍、つまり聖書と言う形で何十億もの人たちにお与えになったのです。このことを通して、聖書すなわち神の言葉は、世界を変えて行きました!
私たちに与えられた使命は、”自分にできることをする” ことにつきます。あるいは、それ以上のことができるのかも知れません。しかし、まず、自分にできることから始めなければなりません。そして、神さまは、私たちが自分にできることを成し遂げるまで、それ以上のことをお求めになることはないでしょう。イエスさまがご自分の死を通して伝えたかったメッセージ。そのメッセージを人に伝える機会を決して逃すことがないように、主の助けを祈りましょう。
イエスさまは、神さまが下さった福音・良き知らせ、を実現してくださった方であることを、いつも心に止めておいて下さい! 神さまは、ご自身のメッセージを世に証しした人たちを、今も永遠の時においても報いて下さいます。
人をイエスさまに導くことができるかもしれない事を、するかしないか迷うとき、イエスさまは、神さまのメッセージをあなたに伝えるために死なれたことを思い出して下さい! イエスさまから頂いたメッセージを伝えるためなら、どんなリスクも物ともしなかったクリスチャンたちを思い出して下さい。人々に福音を伝えれば、追放されたり処刑されたりしかねない事を、彼らは知っていました。
忙しかったり、自分が真理と思うことを人に知られる煩わしさから、神さまが下さったチャンスを、あなた方は、いや、私もそうですが、見逃しているのかもしれません。
この事は忘れてはなりませんー”自分にできる事”をするかどうかを決めるとき、あなたは、人が永遠の命を得られるかどうかを決めているのかも知れないのです。
翻訳:奥脇省三
あなたに出来ること
あなたは歩くことが出来ない人でした。その理由は? どこか悪い所があったのでしょうか? あなたにはちゃんと二本の足があったのです。でも、立とうとするとすぐ倒れてしまう状態でした。しかし、いつもあなたを励ましてくれる人がいて、おかげで、あなたはついに歩けるようになったのでした。
イエスさまは申し分のない素晴らしい先生で、人々が知っておかなければならないことは何かをよくご存知でした。三年の間、神さまを信じ、すべてをお委ねしなさいと弟子たちを励まし続けてこられました。神さまはどんな必要でも満たすことがお出来になることを、色々な方法で見せて下さいました。
そこで、ついに弟子たちもまたいくつか奇蹟を行うことができるようになりましたが、イエスさまが逮捕されると、彼らの信仰はどこかへ飛んで行ってしまったのです。後になって、彼らは聖霊に満たされます(使徒の働き 1章)。そして、病める者たちを癒し、福音を全世界に伝えるという使命を果たし始めました。
神さまが私たちを召し、させようとなさっている事を果たすことができるようになるために、どのようにして信仰を成長させて行ったら良いのでしょう? 神さまは、私たちのことを、神の子と呼んでくださっています。だから、信仰を高めることを学び始めるには、子供が歩くことを学び始めるのと同じようにするべきなのです。家の人たちは、子供たちに手を差し伸べて、さあ、もう一歩歩いてこちらに来なさいと言います。私たちもまた、長年にわたって、私たちにこう言い続けて下さった人たちの声を聞かなくてはなりません、”神さまを信じ、全てをお委ねしなさい”と。
私たちは、イエスさまの弟子たちが残した素晴らしい報告書を学ぶことが出来ます。彼らは、イエスさまが話されたことを信じ実行することを学んだ人たちでした。さらに、イエスさまの教えを信じた多くのクリスチャンたちが残した本を読むことも出来るのです。
イエスさまは弟子たちに、信仰があれば山も動かすことができるとおっしゃいました。でも、それをやってみなさいとはおっしゃっていません! イエスさまが弟子たちに要求されたのは、自分たちにできる事を行い、信仰を成長をさせなさいと言う事でした。
また、小さな種も地に蒔かれて実を結ぶ話や、羊は羊飼いに聞き従う話もして下さっています。
人が種を地に蒔くと、種は成長して、その目的を達成します。自分の信仰がどれほど小さくても、私たちは、信じるべきものを信じ、それによって、自分の信仰を高めるすべを学ぶことが出来ます。私たちに”奇跡”を行う力がなければ、サタンは、お前たちは奇跡など行える器ではないから、そんなことは忘れてしまいなさいと言ってくるでしょう。そこでやめてしまえば、信仰の種を蒔き、それが成長するのを見る喜びを決して味わう事はないでしょう。また、たとえ、あなたの今の生活が安定したものであっても、もっと大きな信仰を必要とする緊急事態があるかも知れないことを忘れてはなりません!
病を得て、神さまに癒しを願ったとき、神さまが癒して下さる事が信じられるまでは、自分の体に大きな変化が起きることを期待してはなりません。力の限り、信じる努力をするべきなのです。信じる信仰を育てましょう。
もっと深く息を吸い込むことができると信じましょう。背筋をもっと伸ばすことができる、腕をもっと高くあげることができると信じましょう。
さらに、仕事をもっと良くこなせることを、商売がもっとうまくいくことを、もっと幸せになることを、もっと良い親であることを、もっとストレスの少ない生活を信じていきましょう。
何も喜ぶことがない時にも喜び、助けを必要としている人に、ささやかな助けの手を述べたときに喜びましょう。
すると、何が起きるでしょう? 信仰が成長するのです。これは失敗かなと思った時に思い出して下さい。出来ると信じたことは必ず出来るとイエスさまがおっしゃっているのを。
”信じる者にとって、不可能な事はない。” (マルコの福音書 9章23節)
あなたのゴールを達成するのは一日がかりかも知れません。一年かも知れません。いや、一生のほとんどを費やすことになるかも知れないのです。
翻訳:奥脇省三
学ぶのに最もふさわしい時
イエスさまを手本にして生きるとはなんと難しい事なのか、と思う時があります。でも、クリスチャン生活で最も大切なのは、出来る限りイエスさまと同じように生きることではないでしょうか。では、どんなお手本をお示しになったのでしょう! イエスさまをお手本として、同じように神さまに従順に従うことなど、私たちにはとても出来ません。でも、その努力はしなければなりません。努力し続けなければならないのです。
人の生まれつきの性質とは、何事も自分の好きなようにしたいと言うことです。自分のやり方を正当化する理由を見つけることにかけては、私たちは本当に優秀です。イエスさまの弟子たちさえ、自分たちも主がなさる事について意見を言う資格があると思っていたぐらいでした。
誰かと争いになった時ー相手が誰であってもー人は、自分を不幸せにするというボタンを押してしまいます。でも、もし平静を保ち、無視されたとか批判されたとかいう侮辱を受け入れることが出来たなら、私たちが怒りを感じても、それは”正しい怒り”となるでしょう。相手より精神的に強い人間だと感じるかも知れません。なぜなら、相手に自分中心の方法を選ばせることが出来たからです。
神さまは、私たちがもっとイエスさまに似た生き方をする努力をして欲しいと願っておられます。イエスさまは、ご自身の生涯が不公平なものとは思っておられませんでした。これは驚くべきことではないでしょうか? イエスさまはへり下って、父なる神さまに完全に従っておいででした。死に直面した時でさえ、奇跡と思えるほどの平安を保っておいででした。
イエスさまは私たちに、この神の平安を求めておられます。しかし、私たちは、生まれながら持っている性格から、こんな反応をしがちです。
”自分にだってビックリして取り乱す権利はあるんだからな!”
でも、これこそ神さまが、私たちに捨てなさいとおっしゃっていることである可能性大なのです。こんなメッセージを下さっています:
“わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。”
ヨハネの福音書 14章27節
私たちは、生まれながら持っている性格から、イエスさまが下さった、この ”心を騒がせてはなりません” というメッセージに逆らってしまいます。だが、イエスさまと同じように信じ行動できるようになるための助言が、ローマ書8章28節にあります。
”神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”
また、こんなことも、教えて下さっていました;
“そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。”
ピリピ人への手紙 4章7節
こんな心の平安を得ることなど、全く理解できないことかも知れませんが、私たちを創られたのは神さまであり、神さまは、私たちがどのようなものか、何を与えることができるかをよくご存知です。
そんな私たちには、二つの選択があります:ビックリして取り乱して不幸せになるか、または、以下の選択をするかです:
“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。”
ピリピ人への手紙 4章4節
”主にあって、いつも喜びに満ちている” のを私は選ぶと、いつも言えるようになりましょう。
たとえ従えなくても、神さまは赦して下さいます。それは、私たちを愛して下さっているからです。神さまは、私たちに永遠の棲家を用意してくださり、日々の生活においても、そこでの問題ではなく、神さまを見つめて歩むことを求めておいでになります。
神さまは、イエスさまが悪人たちの手に落ちることをお許しになりましたが、同じように、私たちが人々との間で問題を抱えたり、困難な環境におかれることをお許しになるかも知れません。しかし、そんな時でも、私たちが神さまを信じ、お委ねすることを望んでいらっしゃいますーイエスさまがそうされたように。
その時こそが、学ぶのに最もふさわしい時なのです!
翻訳:奥脇省三
